今から98年前の大正11年6月25日、大正天皇の第二皇子、淳宮雍仁親王殿下が成年に達せられた折り、当地の地名より新たに「秩父宮家」をご創建あそばされました。「秩父宮」という宮号は、皇居からみて西北に位置する秩父嶺が武蔵国の名山であり、荒川の源流域にあって神話に繋がる古い歴史を有する地域であることに由来すると伝えられています。同年11月26日、秩父宮殿下には初めて秩父地方に御成りあそばされ、まず秩父神社にご参拝の後、広く秩父郡内をご視察あそばされました。このご慶事を長く後世に伝えるべく、当時この11月26日をもって「秩父郡の日」と定めています。
翌大正12年11月10日、大正天皇の御名により「国民精神作興ニ関スル詔書」が渙発されました。この詔書は、教育勅語や戊申詔書の流れをひき、第1次世界大戦後の個人主義や民主主義の風潮、社会主義の台頭に対処し、関東大震災後の社会的混乱を鎮静するため、国民精神の振興を呼びかける内容になっていました。
こうした時代的要請を受け、秩父郡教育界では郡民の教育意識の高揚を図ることを目的として、「秩父郡誌の編纂」更には「郡歌の制定」を主要事業の柱に据える中で、特に秩父宮家との深い御縁を通じて、皇室と郡民との精神的紐帯をより強固なものにしたいという意図が働いていたことは想像に難くありません。
いち早く大正14年に「秩父郡誌」が発行され、その後、昭和3年9月の秩父宮両殿下のご成婚、同年11月の昭和天皇の即位の礼・大嘗祭などのご慶事を経て、昭和4年3月17日、秩父郡教育界では昭和の御大典記念行事として以下の「教育是」を制定しています。
当時の秩父地域は、秩父町、小鹿野町をはじめ2町30村からなり、郡民が心をひとつにして歌うことのできる郡歌の制定は悲願でもありました。そうした願いが結実する形で、作詞は佐佐木信綱、作曲は信時潔と当代一流の芸術家の手により、昭和3年9月21日に「秩父郡の歌」が制定されたことが、当時の毎日新聞・埼玉版に報じられています。ドイツ古典派を思わせる簡素で重厚な旋律の上に、武甲山をはじめとする秩父山塊と荒川の清流、秩父銘仙や林業など当時の地場産業を織り込み、更には深い御縁を戴いた秩父宮家を顕彰する内容に仕上がっています。
当時、この歌は広く秩父郡内全域で老若男女に愛唱されていましたが、昭和20年の敗戦以降、公の場で歌うことが自粛されるようになりました。これはアメリカを中心とする占領国軍GHQ主導による教育改革により、「秩父郡の歌」の制定の拠り所でもあった「国民精神作興ニ関スル詔書」が、昭和23年6月19日、衆参両院において教育勅語などと共に排除・執行確認の決議がなされた影響によるものと考えられます。その後、昭和25年には秩父町が埼玉県下七番目の市となり、昭和35年には秩父市歌も新たに制定されました。この間、郡内の町村合併が進み、その後の平成の大合併を経て、現在は秩父市・横瀬町・小鹿野町・皆野町・長瀞町・東秩父村の一市四町一村からなる地域へと様変わりしています。
私ども一般社団法人秩父宮会は、秩父宮両殿下のご遺徳を長く後世に伝えることを目的として昭和28年に設立された団体であり、平成14年以降、秩父市役所より秩父神社に事務局を移し、秩父宮の冠を戴く各種スポーツ大会の開催をはじめ、秩父宮殿下の随筆集等の刊行、秩父宮記念市民会館内の御肖像プレートの制作など、秩父宮両殿下の顕彰事業に努めて参りました。
今般、新たな時代の始まりにあたり、報本反始の志をもって、凡そ一世紀前に制定された「秩父郡の歌」を復刻し、21世紀を生きる皆様にお届けすることと致しました。
制作過程において奇遇にも発見することができた信時潔の手書きによる原譜より正式に楽譜を調え、秩父在住のピアニストである鈴木啓三氏の伴奏と薗田真木子氏のソプラノソロ、更には秩父地域に縁を持たれる8名の歌手の皆様のご協力のもと、混声4部合唱の収録も叶いました。多くの皆様に親しんで戴くべく、音楽データと楽譜についてはダウンロードが可能になっています。この懐かしい故郷の歌を通じて、深い御縁を戴く皇室の弥栄をお祈り申し上げますと共に、秩父郡市の更なる発展を心より祈念申し上げます。
令和2年5月3日 一般社団法人秩父宮会事務局
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